お城は好きだけど、実は歴史に詳しいわけではない私。
詳しくない歴史の中で、乱世の戦国時代は特にも苦手なのです。
なのに、なぜこんなにもお城に魅せられるのか??
やはり、そこには、歴史が刻まれているからなのでしょう。
史実がどこまで事実なのか。
黒田官兵衛ゆかりの城めぐりのスタートは、私もゆかりのある地、鳥取市からスタート。
実は、偶然にも昨年9月、ちょっとした空き時間にこの城を訪れました。

2013年9月30日の鳥取城
用事があって4年ぶりに訪問した鳥取市は、弾丸旅で滞在時間がほとんどなかったのですが
せっかくなので、仁風閣くらいは見ておこう!
わずかな時間に循環バスで行ってみました。
そこで、発見した烏取城跡。
鳥取へは何度も行っているけれど、観光をすることはなかったので、
こんな城跡があったことを知らなかったのでした。
登ってみようと石段を上がってみましたが、ヒールの靴では無理でした。
登ってみたかったな。。。
そんな思いが通じた?突然、黒田官兵衛の旅のお話をいただきました。
びっくり!まさに、私が登りかけてやめたその場所が旅先。
鳥取城跡は30年計画で、江戸時代の姿へ復元する計画が進んでいるそうです。
登城ルートの整備、三階櫓などが近い将来復元される予定とのこと。

天球丸の巻石垣(復元)
亀の甲羅状の石は、設置された石垣がくずれそうになったのを
防ぐために置かれた ものだそうです。
「巻石垣と」もいわれ、川の護岸や港の突堤に関わる職人さんが
築いたとされているそうです。
このよう石垣は 「日本で唯一、鳥取城のみ 」なのだそうです。
絵図を元に復元されたそうですが、日本の城というより、西洋風な趣もあります。
鳥取城は、久松山(きゅうしょうざん)の山頂と山麓に城郭が築かれ、
山頂の戦国時代の山城(山上の丸)と
麓の近世城郭の平城(山下の丸)からなる城なのだそうです。
工事の様子も楽しめるようになっています。

この二本の松は昔からこの場所にあるそうです。
復元工事中なので、クレーンが見えていますが、この対のように寄り添ってそびえたつ松が
なんとも不思議で、何か訴えている気さえしました。
二の丸に上がると標高50メートルくらいですが、かなり眺めがよくなり鳥取市内を眺望できます。
仁風閣が下に見えます。

城跡は運動公園だったり、動物公園もあったそうです。
なんと、この辺りはイノシシが出るそうです。
びっくり〜〜〜だって、ここから5分もかからず県庁もあるんですよ!
天守は久松山(きゅうしょうざん)の頂上付近にあったそうで山城。
山城は敵の攻めに対して、眺めがいいけれど、攻められたときに食糧の調達が大変なわけで...
そこを、秀吉が狙って、 「兵糧攻め」 という、流血の戦いはしないけれど
もっとも残酷な手段で攻められてしまったのです。
烏取城があった久松山の近くには、現在の太閤ヶ平、本陣山があり、羽柴秀吉は本陣を構えました。
久松山とは、直線距離で1.5キロ。
黒田官兵衛ゆかりの地をめぐる旅?太閤ヶ平から鳥取城跡と鳥取砂丘を望む
本陣山の記事はこちら
烏取城のあと、太閤ヶ平を案内していただいたので、別記事にします。
が、太閤ヶ平からは、手に取るように鳥取城の様子が見え、声さえも聞こえる距離です。
秀吉は、烏取城の周囲に14〜15の砦を築きました。
農民だった秀吉は土木工事を得意としていたので、その砦を築くのも素早かったようですが
築いた砦の中のひとつを、黒田官兵衛も守っていたそうです。
その砦の場所は、現在の鳥取市内湯所の辺りの要所、そこを守っていたと史料があるそうです。
兵糧攻めが始まった時、鳥取城には食糧が20日分。
吉川経家が城主になって、あまりの食糧の蓄えのなさに驚いたそうです。
秀吉がすでに高額で、米などを買い占めてていたそうで、城から持ち出して売られていたとか。。。
毛利氏の援助を頼りにしていても
秀吉の陣営に海も千代川、陸も固められ、援軍も頼れず、
一ヶ月で食糧がつきはじめ餓死する者が出始めたそうです。
約4ヶ月後、城主である吉川経家が秀吉に開城を申し出て、
経家など有力者の切腹と引き替えに
兵士たちの助命が聞き入れられたそうです。

吉川経家辞世の句は
「武士(もののふ)の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖なるらん」
「もとの栖(すみか)に帰る」という意味。
文武に優れた武将として知られる経家。
毛利側より派遣されてきた経家、秀吉も彼の優れた能力をかっており
自害はしなくていいと言ったそうですが、経家は死を選びました。
時代が必要とした人、いえ、時代に翻弄された人なのですね。。。
本来の鳥取城主は追放された山名豊国ですが
豊国は家康によって取り立てられ、生きながらえました。
吉川経家の像は鳥取城ある久松山を背に立っています。
城跡には昔のままの石垣や、石段も多く残っています。
過去に鳥取城を復元という話もあったようですが、建物は立たない(予算の関係から)ということで、その話はいつしか消えたそうです。
地震の影響など、古い石垣が危険なことから工事が必要となり
石垣は復元し、三階櫓は復元予定ということで、今、鳥取城の復元工事が進んでいるようです。
ここの整備が進まなかった理由は、もしかしたら、兵糧攻めの様子があまりに残酷、無残な飢餓状態で
心霊スポットとまでなっていたそうで、地元の方には悲しい暗い歴史の負の場所だったのかもしれません。
天球丸跡
池田長吉姉の天球院(てんきゅういん)の居所があったことによる。そうです
過去に私が制覇した城の中で、一番大変だと思ったのは彦根城でしたが、鳥取城の
制覇の難易度は、国内の城、城跡の中でもトップクラスではないかと思いました。
黒田官兵衛ゆかりでもあり、日本のマチュピチュといわれる竹田城、私は制覇していませんが
その竹田城以上に、難易度が高く、城としても面白いと思いました。
菱櫓跡
復元された場所はまだまだ一部で、昔のままの姿が残っています。
鳥取の名物に「とうふちくわ」がありますが、
このちくわが生まれた背景は、徳川家康の孫に当たる鳥取の初代藩主・池田光仲から始まる池田藩が関わっているとのこと。
池田のお殿様は、江戸に見栄を張るために、倹約、節約。
民に贅沢を禁止し、豆腐を食べていろと強いられたことから
とうふちくわが生まれたらしいのです。
二の丸 走り櫓跡

登り石垣らしいのですが、あまり意味のない場所に残っていました。
なぜここに?烏取城の不思議。
天守閣のあった久松山は263メートルあるそうです。
二の丸で50メートル。
本丸までは片道40分。
二の丸から先は、昔のままの急な石段が延々と続くそうですが、地元の方はよく散歩コースにされているそうです。
私は坂を上るのは得意なのですが石段は苦手。
雪が降って滑りやすい状態なので、降りるときが心配で、本丸へ登るはやめました。
この石垣は昔のままの状態。
戦国時代以降の石垣は、主に「空積み」が多いそうです。
大河ドラマ「軍師 官兵衛」の中では、あまり大きく扱われないようで残念ですが
『鳥取城の兵糧攻め』 こそは、
現代に生きる私たちが、知っておくべき重要な史実ではないでしょうか。
久松山の鳥取城本丸跡には石垣が残ります。
春は桜の名所で、その久松山の麓の広場ではツツジが満開になる、国指定史跡。
〒680-0011鳥取市東町2
鳥取駅からバスで8分鳥取駅からバスで8分「西町」下車、徒歩5分
(土日祝のみ)
ループ麒麟獅子バス「鳥取城跡」下車、徒歩5分、 「西町」下車、徒歩5分
※私はタクシーを利用。
鳥取城の登口まで、鳥取駅から800円でした。
姫路、岡山、鳥取城下町推進協議会 / 黒田官兵衛ゆかりの城をめぐる山陰・山陽の旅
まとめの目次
SPECIAL THANKS
鳥取市教育委員会・文化財専門員 細田様
ご案内いただきありがとうございました!


